幻獣綺譚


 街は、いつも通り活気に溢れていた。
 瑠璃雀亭の窓辺の日溜まりでは、銀色の髪の青年が相変わらず外の風景を眺めている。
 溜息を吐いた口元に、鋭い獣の牙が光る。瞳は言うまでもなく豹のそれで、端正な横顔には、虎豹のような斑点が不可思議な文様を印している。
 それでいて、彼の容姿はこれ以上ないほど整っていた。
 黒豹の血を引くヴァルク――この街では、それと知られた人物である。つい先日まで、彼は暗殺者としてその名を馳せていた。だが…

 「ヴァールク! どーしたのさ、真っ昼間から暗いわよぉ?」

 何度目かになろう溜息を吐きかけた時、店内の静寂を破って中性的な声が響いた。伏せていた顔を上げ、彼はその声の主に半ば呆れた視線を向ける。
 陽光を受けて輝く金色の髪。美麗なその面立ちに薄く化粧を施し、一見派手だと思えるほどの女物の衣装に身を包んでいる青年が、笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 「もしかしてアディラに何かされた? …って、んなワケ無いか。あっはははは!」

 無駄に明るいその様子に、彼は深々と息を吐き出した。

 「レーヴェ、今日はやけに機嫌がいいじゃないか。」

 溜息混じりのその言葉に、レーヴェは椅子に座りながら応えた。

 「そーなのよ、仕事見つかったから。」
 「夜の客か?」
 「違うわよ、昼間から失礼な。」

 からかい半分で言ったヴァルクの言葉に対して苦笑し、心なしか気取った仕草で頬杖を付く。

 「アディラが言ってたでしょ、数日のうちに仕事見付けるって。」
 「ああ…雇い口か。」
 「ちょーっと、違うんだけどね。ま、すぐにアディラが来るから、あいつに聞いて頂戴。」

 使い慣れた女言葉でそう言うと、レーヴェは運ばれてきた酒壜の栓を開けた。昼間から…と眉を顰めるヴァルクに構わず、杯に果実酒を注ぐ。

 「――で、何よ?」

 唐突に問いかけられ、ヴァルクは面食らった様子でレーヴェを見返した。

 「何の事だ?」
 「やーねぇ、アンタさっきまで暗い顔してたじゃない。何かあったワケ?」

 口元に杯を運びながら、レーヴェは打って変わった真剣な表情で尋ねる。…とは言っても、この口調では真剣も何もあったものではないのだが。
 視線を落として押し黙ったヴァルクを見やり、レーヴェは杯の果実酒を一口飲み込む。

 「…ヴァルク?」
 「アディラが来てから話す。」

 重ねて問いかけたレーヴェに無愛想にそう言うと、ヴァルクはレーヴェと同じように杯に口を付けた。ただし、中身は知っての通り酒ではなく、柑橘系の甘味の少ない飲み物である。

 「ふゥン…?」

 特徴的な気取った仕草で前髪をかきあげ、レーヴェは軽く口笛を吹いた。

 「ま、アンタも色々あるわよねぇ。」

 そう言うと、杯に残った果実酒を一気に呷る。空になった杯を置いてふと顔を上げると、丁度店に入ってきた黒髪の青年と目が合った。

 「おっそーい!」

 …途端、これである。
 苦笑を浮かべて歩み寄ってくる彼を上目遣いに見上げ、レーヴェはもう一言、辛辣に言い放った。

 「遅れた罰として、この酒代あんたのオゴリよ、アディラ。分かった?」
 「おいおい、そりゃないだろ…」
 「あら、ついでにヴァルクの分まで払ってくれるの?」
 「そんなことは言ってな」
 「そうそう、私ツケたまってんのよね。」
 「うぐ…」
 「そーゆーワケでヨロシクね、アディラ。ほんと、助かったわぁ。」
 「ちょ…っと待て!」

 畳み掛けられ、彼ははっとして我に返った。

 「誰もそこまでやるとは言ってないだろうが!」
 「んじゃ、ドコまでなら払ってくれんのよ?」
 「うぐ…」

 絶句するアディラの傍らで、ヴァルクが呆れ顔に二人を見ているが、二人はまったく気にならないらしい。まぁ…日常茶飯事のことなのだが。

 「…ヴァルクの分までだ。自分のツケは自分で払え。」
 「冷たいわねぇ…」
 「当然だろうが!」

 言いあいながらも、アディラは漸く椅子に腰を降ろした。用意されていた杯を手に取りながら口を開きかけ、ふとヴァルクを見て動きを止める。

 「どうしたんだ? 顔色がすぐれないが。」

 怪訝そうに問いかけるアディラに、ヴァルクは苦笑する。

 「少し、気になることがあってな。」
 「…そうか。」

 いつもなら茶化す所だろうが、沈んだヴァルクの声にアディラは口を噤んだ。
 それと見て、レーヴェがついと身を乗り出す。

 「で、結局何なのよ、ヴァルク? 話すって言ってたでしょ。」
 「ああ…」

 二人の会話に、アディラは怪訝そうに眉を顰める。だが、彼が問いかけるより早く、ヴァルクが口を開いていた。

 「俺が人狩りをしていたのは知っているだろう?」

 潜めた、重い言葉だった。

 「人狩り…ね。ま、知ってるケド。またその話なワケ?」

 杯を片手に、レーヴェが素っ気なく呟く。
 人狩り――ヴァルクが自分を嘲るように使っていたこの言葉を、レーヴェは良く思わなかった。
 暗殺者だとて仕事だろうし、そもそもヴァルクのそれは好んでやっているわけではないのだから、そこまで低劣な言い方をしなくてもいいだろうと――毎回ヴァルクに言っていたのだが、癖になっているのか未だにヴァルクはこの言葉を使い続けている。
 怪訝そうな表情で頬杖をつくアディラに目を走らせ、ヴァルクは言葉を続けた。

 「勿論俺はもうやめたつもりでいるし、レーヴェも…アディラ、あんたもそう考えていると思う。ただ…」

 一旦言葉を途切り、大きく息を吐きだす。

 「斡旋所の方で、俺を解雇してくれるか…それが、心配なんだ。」
 「…はぁ?」

 すっとんきょうな声を上げ、レーヴェは椅子に背をもたせかけた。

 「気掛かりって、それだけのこと?」
 「それだけって言うがな…」

 呆れたように溜息を吐くレーヴェに、ヴァルクは苦笑する。

 「俺は勿論のことだが、狩人の大半は、斡旋所の裏の仕組みを知っている。そこの人間としちゃ、そんな仕組みを知っている人間は、そう簡単に世間には出せないだろう。」
 「まぁ…そう言われれば」

 どこか悲痛に響くその言葉に、レーヴェは曖昧に相槌を打った。杯を傾け、ふと傍らのアディラに目を向ける。

 「…ねえアディラ。あんたは、大丈夫なの?」
 「あぁ? オレか?」

 唐突な問いかけに、彼は戸惑うでもなくいつのまにか伏せていた顔を上げた。

 「さぁ…オレは、こないだの失敗りで解雇された方だから…それに裏の仕組みとやらも知らねぇしな。…何だよ、ヴァルクが人狩りって呼ばれんのは、その裏の仕組みとやらを知ってたせいか。経験が少ないのはオレの方だったかな。」
 「あ、そ。」

 呆れを通り越して無感情にそう言うと、レーヴェは再びヴァルクに視線を戻した。
 その端正な獣の相貌に、いつになく不安の色が濃い。

 「…ま、大体言いたいことは分かったわ。で? 私達にどうしろって?」
 「いや、別にどうしろということはないんだが。」

 返された言葉に、レーヴェは軽く唇を尖らせた。そんな仕草も、彼がすると妙に似合ってしまうから不思議だ。

 「ったく、可愛くないわねぇ。危険だから傍にいるなとか、注意しろとか…それ位言ってくれてもいいじゃない。」
 「よく言うぜ…」

 漸く普段の調子に戻ったヴァルクが、そんなレーヴェを見て肩を竦める。

 「言ったところで無理にでもついてくるくせに…」
 「あーら、何か言ったぁ?」

 流し目から発展した睨みでヴァルクを黙らせ、レーヴェは妖艶な笑みを浮かべた。

 「んじゃ、アディラ。その仕事とやら、聞いてあげようじゃないの。」


********


 彼らにきた依頼とは、町外れにある遺跡――前回、取引場所にもなった寺院である――の探索願いだった。
 何でも、地下へと続く回廊が見つかったのはいいが、そこへ入っていった発掘家達が一人として戻ってこないからとのことだった。
 危険すぎないか、とレーヴェは文句を言ったが、入っていった発掘家達が、探索に関しては素人同然だったという事実と、ヴァルクとアディラ、二人の説得に折れて結局依頼を受けることになった。

 「ったく…陰気なトコねぇ。」

 武器である樫の棍を手持ち無沙汰に振り回し、レーヴェはふと呟いた。

 「湿ってるし暗いし。あーやだやだ。」

 傍らでは、腰に長剣を帯び、マッピングのための原稿用紙とペンを手にしたアディラが苦笑している。

 「ちょっとヴァルク? あんたさっきから何黙ってんのよ。そりゃ、こういう場所で喋るのは危険かも知れないけど、何も魔物が出るってワケでもなし…」

 松明を手に先を進むヴァルクに、レーヴェは半ば八つ当りのように続けた。

 「それに、あんたやっぱ変よ? そんなに斡旋所のコト、気になるわけ?」

 言いつつ、ひょい、とヴァルクの顔を覗き込む。
 頬に浮かぶ虎豹の模様。獣の瞳が、松明の光を映して飴色に煌めいた。ただ、その表情は今までに無いほど真剣で――。

 (やんなっちゃうなぁ、もう…)

 内心溜息を吐き、レーヴェはもとの位置に戻った。

 (せっかく、嫌がってたのから開放してあげられると思ったのに。)
 「…どうしたんだ、レーヴェ?」

 急に押し黙ったレーヴェに、アディラが気遣わしげな視線を送る。そんな彼を上目遣いに見やり、レーヴェは軽く溜息を吐いた。

 「ホンート、あんたは気楽でいいわねぇ。」
 「なっ、どういう意味だ、そりゃ!?」
 「言葉どおりの意味よ、そのまーんま。」

 手にした棍を弄びつつアディラと言い合うレーヴェに、ヴァルクはふと苦笑を洩らす。
 どうやら、この二人は気付いていないらしい。瑠璃雀亭を出たときから、ほんの僅かな殺気が、巧みに自分たちの後をついてきていることに。

 (気付いてないなら…巻き込む事もないか)

 そう思いつつ、行き当たったT字路を右に曲がる。
 レーヴェが発光体を目印に付けるのを視線の端に確認し、さらに通路を進んだ。
 依頼は、寺院探索と共に発掘家救出も兼ねていた。彼の嗅覚ならばすぐに見付けられるだろうと、依頼主とアディラは信頼して、レーヴェはからかい半分に言っていた。

 「…ヴァルク、こっちなのか?」

 無言で足を進めるヴァルクに、さすがに不安になったのかアディラが尋ねる。ヴァルクはほんの少し眉を顰め、歩みを止めずに頷き返した。

 「ああ…間違いない。」
 「なーによ、アディラ。信用してないの?」

 すかさず、レーヴェの声が響く。どうやら相当退屈しているらしい。

 「そう言うわけでは無いんだが…」
 「じゃ、何なのよ。ああもう…面白くないわねぇ。」
 「面白くないって…お前な。」

 背後の二人の会話に内心呆れた溜息を吐き、それでもヴァルクは歩みを進めた。
 入っていった発掘家は五人だと聞いた。それにしては気配が弱々しいのが気に掛かったが、おそらく次の角を曲がった先にはいるだろう。

 「ねぇ、まだなの?」

 いい加減うんざりしたようなレーヴェの声に、ヴァルクは漸く足を止めて振り返った。
 娯しげな光がレーヴェの瞳の端に宿っているのを見、苦笑を浮かべる。

 (はめられたか…)
 「あら、笑ったわね。何が可笑しいのよ。」
 「いや…」

 再び歩きだしたヴァルクの横に並びながら、レーヴェは言葉を続ける。

 「さっきまで沈んでたと思ったら…ワケわかんないわ、あんたって。」
 「よく言うぜ。どっちが分からない性格してると思ってるんだ。」
 「あんたよ、あんた。」
 「ったく。どうでもいいが、そろそろ着くぞ。」
 「どーでも良くは…何だって?」

 いつもの調子で切り返そうとし、レーヴェははっとしてヴァルクを見上げた。

 「着くって…その発掘家がいる場所?」
 「ああ。」
 「そういうコトは早く言いなさいよね!」

 言うなり、レーヴェはヴァルクの手から松明を奪い取る。
 アディラの手を引いて自分を追い越して行くレーヴェを苦笑しながら見送り、彼はふと表情を引き締めた。
 進めようとしていた足を止め、深く息を吸い込む。

 (…来た)

 背後の闇の中で、急速に殺気が勢いを増してくる。

 (やはり――俺が標的、か。)
 「ヴァルク? ちょっと、何処にいるの?」

 レーヴェの声に応えている暇はなさそうだった。
 背後から投げられた小さなナイフが、彼の頬を掠めて目の前の壁に突きささったのだ。
 無言でそれを見つめ、ヴァルクはゆっくりと振り返る。
 殺気の主は、見えない。

 (…相当な手練だな。)

 そう思った刹那、再びナイフが閃いた。今度は少し離れた、今まで通ってきた通路の壁へ…まるで道案内でもするかのように数本突きささる。

 (誘導しようと言うのか。意外に)

 思わず苦笑を浮かべ、彼は歩きだす。

 (――フェア…なんだな)

 ちらと、レーヴェとアディラの事が脳裏を掠めたが、心配は無い気がした。
 松明は持っているのだし、アディラがマッピングしていた。自分は闇でも辺りを見通せるし、彼らの気配を追って外へ出ることも可能だろう。

 ――もし、死ななかったなら…な。

 勝てる自信があるとは言えない。彼の頬を掠めたあの腕前が故意によるものだとすれば、武器こそ違うが彼と同程度の手腕だからだ。
 ナイフは先程のT字路を左に折れるよう示していた。ふと気付けば、大分先までそれが続いている。
 軽く舌打ちし、ヴァルクは壁のナイフを弾き落とした。
 注意していなければ気付かないほどの大きさ。だがこれはおそらく、殺気の主の主武器ではない…。
 獣の瞳で通路の奥を見据え、彼は不意に地を蹴って駆け出した。
 銀色の髪が、風に染まるように金褐色へと変わる。端正な横顔はそのままに、瞳は鋭さを増し、唇から垣間見える犬歯は餓えた獣のそれへと。

 「愉快だねぇ…」

 走りながら知らず呟き、強靭な爪の生えた手を握りしめる。腕には黒銀の艶やかな体毛、その背には長い尾…。
 辿り着いたその部屋の四隅には、御丁寧にも松明が掲げられていた。
 松脂の弾ける音を聞きながら、ヴァルクは部屋の中央に油断なく佇む人影に目を向ける。
 伸ばしたまま無造作に纏められた長い髪。引き締まった四肢に、冷たい瞳。

 「来たわね、黒豹のヴァルク。」

 冷酷な笑みを浮かべてそう言ったのが女性だと知って、彼は驚愕した。

 「貴様――雪夜叉の…」
 「あら、御存じ? それは丁度よかったわ。名乗る手間が省けたもの。」

 くすくすと笑いながら、彼女は背に帯びていたシールド・ブレードを手にする。

 「質問があるの…いいわよね。」
 「…戦いを前提に、か。」

 皮肉げな笑みを口元に漂わせ、ヴァルクはそれでも頷いた。
 質問の内容は分かっている。おそらく…

 「組織を抜けた理由…無いなんて言わせないわよ。」

 質問というよりは、むしろ恫喝だった。
 彼女のアイスブルーの瞳が無表情に煌めき、ヴァルクを見据える。

 「血で汚れた組織に嫌気がさしただけだと言ったら?」
 「あら…奇遇ね。私もよ。」

 油断なく間合いを取りながら、ヴァルクはすう…っ、と目を細める。

 「気付かないのかしら? 貴方の手も汚れていると」

 言いながら、彼女もまた身構える。両手に持ったシールド・ブレードはそのままだったが、その視線に目に見えて殺気が加わった。

 「だからこそ俺は…嫌気がさした。」
 「とんだ偽善者ね。組織の所為にするわけ…?」

 変わらず静かなままの声に、寒気すら感じる。

 「誰のお陰でここまで生きてこられたと思ってるの…ねえ、黒豹のヴァルク?」
 「無論、組織さ。だが、恩は返した筈だ。俺が引き受けた依頼のなかに、組織の奴らが工作をしたものか無いとは言わせないぜ。」

 吐き捨てるかのように言い放った言葉に、彼女の瞳が細められる。
 武器の中では最強とも言われるシールド・ブレードを構え、彼女は軽く息を吐き出した。

 「そう…色々知ってるのね。それなら仕方ないわね!」

 不意を突いて、彼女の脚が地を蹴る。間一髪でそれを避け、ヴァルクは軽く舌打ちした。

 「シールド・ブレードか…愉快だね。」

 自らの身体の一部である爪を武器にする彼にとって、最も苦手とする武器の一つである。
 シールド・バトンにブレード=刃を加えたこの武器の打撃を受ける事は、のみならずその刃を身体に食い込ませることになる。武器の性質上切断は出来ないのだが、それだけに厄介な代物だった。
 鎌と楯を併せたようなそれを見つめ、ヴァルクはついと構えを解く。
 不審げに眉を顰め、彼女はそれでも用心して間合いを取った。

 「観念したとでも言うの? 意外ね」
 「まさか…お前ごときに。」
 「言ったわね…覚悟なさい」

 凍てついた声に、憎悪とも言える感情が含まれる。
 それと気付き、ヴァルクは内心苦笑した。

 (成程…雪夜叉でも感情はあるか。あとは…隙、だな)

 相手がシールド・ブレードを武器にしている以上、刃を交えずに戦うしかない。

 「どうやら…殺す気らしいな。」
 「勿論」

 間髪入れず、言葉と共に刃を振るう。だが、一撃目と違い、その軌跡に鋭さは無かった。
 構えなしの体制から軽く跳躍し、ヴァルクはそれを難なくかわす。

 「どうした? 最強の武器が聞いて呆れるぜ。」
 「生意気言ってくれるじゃないの…!」
 「よく言うぜ。」

 微かに含み笑いを洩らすヴァルクに、逆上したように彼女は切り付ける。

 「俺を殺して…報酬はいくらだ?」
 「黙りなさい!」

 勢いだけの打撃をかわす事など、彼にとってはわけもない。 技術的には同等でも、精神的にはヴァルクの方に分配があがるようだ。
 故意に部屋の隅に追い詰められておいて、彼は三角飛びに彼女の背後に着地する。

 「く…っ」

 振り返った彼女に構える暇を与えず、その腕に鋭い爪で切り付ける。
 鮮血が散り、金属の転がる乾いた音が響いた。

 「…やってくれたわね」

 傷ついた自分の二の腕を見下ろし、雪夜叉のシィナは憎々しげに唇を歪めた。
 肩からだらりと垂れたその腕の傷は深く、溢れ出る血で掌は赤く染まっている。血に落ちたシールド・ブレードを拾い上げることは出来そうになかった。
 片腕は無事だとはいえ、二つが揃ってこそ最強といわれる武器の片割れでは、ヴァルクの爪には到底叶わないだろう。

 「さて…どうする?」

 飛びすさって間合いを取り、ヴァルクは唇の端から牙を煌めかせる。

 「俺はもう狩人じゃない。お前を殺すつもりもないが。」
 「…どうやら、組織に戻るつもりはまったく無さそうね。」
 「よく言うぜ。殺そうとしていたのは誰だ?」

 彼女の声に冷静さが戻って来たことに気付き、ヴァルクは身体を強ばらせた。
 根っからの狩人である彼女のような者は、追い詰められると何をするか分からない――。
 そんなヴァルクの不安を見透かしたように、シィナはふっと笑みを浮かべてシールド・ブレードの構えを解いた。

 (何だ…?)

 構えを解こうとしないヴァルクに向かって、彼女は無造作に歩み寄る。

 「いいのね…後悔するわよ。私は貴方と違って玄人ですからね…」

 漸く彼女に殺気が無いことに気付き、ヴァルクは身体の力を抜いた。

 「またの機会を…か。」
 「そう…覚悟しておいでなさい」

 婉然とした笑みを浮かべ、彼女は床に落ちていたシールド・ブレードを拾い上げる。
 腕から流れる血は止まっていなかったが、眉一つも動かさなかった。

 「さよなら…楽しかったわ、黒豹のヴァルク。今度は――殺すわよ。」

 言い置き、シィナは無警戒に背を向ける。もしヴァルクがその背に襲いかかっていたなら、確実に仕留めることが出来ただろう。
 それと気付いたが、ヴァルクは行動には移さなかった。
 代わりに、シニカルな笑みを浮かべて呟く。

 「愉快だね…闘いが楽しいなんて。」

 既に彼女を飲み込んで久しい暗い通路の中に、苦笑を浮かべたまま彼は戻っていった。


*******


 「ヴァルク!? 何してたのよっ!」

 遺跡から出た途端、怒鳴り付けられた。言うまでもなく、声の主はレーヴェである。

 「いきなりいなくなったと思ったら、獣人化して出てくるし…一体何なのよっ!」

 言葉とは裏腹に、彼の表情は安堵に緩んでいる。
 それと気付いたヴァルクが口を開く間もなく、傍らでアディラが囁いた。

 「やたら心配してたぜ、レーヴェ。…斡旋所の方から何か来てたんじゃないかってな。」

 その言葉に、ぎくり、とする。相変わらず、レーヴェの勘は鋭いらしい。
 ヴァルクは誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべ、自分を睨むレーヴェを見返す。

 「二人で先に行ったもんだからな…折角、気をきかせてやったのに。」
 「なっ…何のコトよっ」

 狼狽したレーヴェが頬を赤らめるのに、ヴァルクは声を上げて笑った。
 アディラが呆気に取られたようにヴァルクを見、つと肩を竦める。

 「どうせなら、ああいう場面じゃなくてもっと別の時にきかせてくれると嬉しいんだが。」
 「アディラ? あんたまで何言うのよ!」
 「あっ…いや、冗談だって!」
 「ったく、心配してたの…に」

 言ってから、レーヴェははっとしたように口を噤んだ。
 そんなレーヴェを見やり、ヴァルクはふと微笑む。

 「さて…帰るか!」

 肩透かしをくらって唖然としているレーヴェを見やり、彼は一人歩きだした。
 知らず空を見上げたその瞳は、相変わらずのなめらかな琥珀色。

 (雪夜叉――次は…いつ、来る?)

 雲を掠めて、白い飛鳥が飛んでゆく。

 (次は…俺も容赦しないぜ)

 そう思いながらも、ヴァルクの口元には、何処か娯しげな笑みが浮かんでいた。



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