幻紫妖淡

 四聖と聖獣の統べる大陸がある。
 その名を、紅徨(こうおう)。この地には理を定める守護者が存在し、守護者に力を貸す三賢と呼ばれる人物がいた。
 守護者、紫淵…そして三賢である氷鷹(ひよう)の燕殊(えんじゅ)、零冥(れいめい)の李怜(りれい)、そして影貂(えいちょう)の幻陽(げんよう)である。
 その中で影貂の幻陽は、視力を失いながらも生涯守護者に仕え、他の誰のためにもその力を使う事が無かったという。
 これはそんな幻陽に関する、一つの逸話である。
 真偽のほどは定かではない。ただ、言っておかなければならないことがある。
 幻陽が仕えたのは紫淵ではなく、次代の守護者であったと。
 この紅徨大陸には、昔あったという桜が今は何処にも無いのだと。
 これが何を意味するか…答は、自分で見付け出して欲しい。

 これより記すは昔語り、ほんの気紛からのものゆえに──

花散る初春の昼下り 幽邃峡(ゆうすいきょう)にて記す
第五代守護者 壟醂






 その日。
 守護者と三賢の住む幽邃峡には、紫淵と幻陽の二人しかいなかった。
 予見と遠見の使い手である燕殊と李怜の二人は、日課である遠乗りに出掛け、残った幻陽は書見を、紫淵は何か思うところがあるのか先程から窓辺に佇んで外を眺めていた。
 まだ色濃く幼い少年の面立ちを残した幻陽は、この時実年齢十七を越していただろうか。けれど、三賢という地位で理不尽に身体の時を止められた彼の外見は十歳前後の幼いままで成長していない。

「見よ…幻陽」

 聞き慣れた声に、幻陽は読んでいた書簡から顔を上げた。肩の辺りで切り揃えた金髪が、穏やかな春の風にさらりと流れる。

「知らぬ間に随分と咲いたものよな…」

 無造作に束ねた紫珠色の長い髪を風になびかせながら、紫淵は窓の外に視線を向けたまま呟いた。
 微かに笑みを洩らし、幻陽は窓辺の青年から書簡に目を移す。

「桜花は開きましたか、紫淵様。」
「さればさ…見よと言っておるのに。」

 すっと伸びた腕が、幻陽の手から書簡を取り上げる。片手で器用にそれを巻き上げ、紫淵は巻き上げたそれで窓の外を指し示した。

「相も変わらず詩文ばかり…たまには風景など眺めるもよかろう?」
「お戯れを…」

 苦笑しつつも立ち上がり、幻陽は結局紫淵の傍に歩み寄った 潮騒に似た木々のざわめきが、耳に心地良い。

「見事なものだろう?」

 窓の外は一面の薄桃色で埋め尽くされていた。
 庵の裏手に生える桜はほぼ満開で、早くも散り始めているその花片が、地面すら薄紅に染め上げている。

「これは…見事な」

 呟くように言ったきり、幻陽は言を失ってその風景に見入った。

「さもあろう? それをそなたは…書簡などに目を落として見逃すところだったのだぞ。」

 からかうような紫淵の言葉に、幻陽は苦笑するしかない。

「確かに…美しい。」
「そう思うかえ、幻陽?」

 再度呟いた幻陽の肩に手を回して自らの側に引き寄せ、紫淵は微かな笑みを洩らした。何かを含み潜ませたようなその表情に、幻陽が怪訝そうに眉を顰める。

「美しいゆえに妖しく、妖しいゆえに恐ろしい…そうは思わぬか?」
「恐ろしい…? あの、桜が?」
「左様さ。」

 平素と変わらぬ吟うような口調。応えにつまり、少年らしくない少年は黙したまま桜に目を戻した。
 風に吹かれてはらはらと舞い散る桜。その紅は相変わらず艶やかで、そしてはかない…

「桜花の根元には、死体が埋もれるという…」
「…?」

 不意に耳の奥をついた言葉に、驚いて顔を上げる。何処か遠い目をした婉然たる紅徨大陸の守護者。その唇から紡がれたのは──

「死体…ですか、紫淵様?」
「桜の紅は、人の血肉を喰らうがゆえの妖しさと…良く言ったものよ…のう?」
「そうでしょうか?」

 不思議そうに問い返す幻陽に、紫淵は乾いた笑い声を上げた。

「分からぬならそれでも良い。…ちょと、出掛けてくる」

 ついと幻陽から身を離して、先刻取り上げた書簡を手渡す。
 無意識にそれを受け取り、幻陽は既に踵を返して歩き始めている紫淵を見やった。

「何処へ参られ──」
「幻陽?」
「あ…」

 紫淵の咎める声に、続きかけた問いかけの言葉を飲み込む。
 三賢と守護者とは、互いに近くにありて遠きもの。例え片腕と呼ばれようと、その動向を気にするような事があってはならない筈だった。いや…それは、紫微皇と呼称される紫淵に限ってのことかもしれない。
 何にせよ、今ここで幻陽が紫淵の行き先を尋ねるのは間違いだった。
 本来ならば浮かぶ筈もない疑問だが、そこはまだ三賢となって日の浅い幻陽のこと、やはり抜け切れぬ癖というものがあるのだろう。

「承知…致しました。」

 うなだれる幻陽から視線を離し、紫淵はくすりと微笑んで歩き出す。

「夜半過ぎには戻る…そう、燕殊と李怜の二人に伝えておいてくれぬか?」
「は…」
「夜桜も美しい…偶さかには、ここから出てみるのも良いぞ。幻陽──」

 謎めいた含み笑いを洩らし、紫淵は部屋を出て行く。残された幻陽は、当惑とも茫然ともつかない複雑な表情で窓の外の桜を見下ろした。
 高台にある庵からの眺めは良く、周りを囲むように生える桜の荘厳と咲き誇る様子を一面に見渡せる。

「夜桜も美しい…か」

 無感情に紫淵の一言を繰り返し、手渡された読みかけの書簡を開く。
 大方紫淵は桜を見にでも行ったのだろう。けれど、そういう風趣に敏感な李怜はともかく、幻陽にはまるで興味の無いことだった。
 再び詩文を読むことに没頭し始めた幻陽を包んで、幽邃峡の時は静かに流れる…。





 燕殊と李怜が帰ってきたのは、日も暮れかけた彼誰時だった。
 幻陽から紫淵のことを聞くと、燕殊はさして面白くもなさそうに自室に引きこもったが、李怜の方はその場に残った。

「へぇ…それじゃ、主上は花見に行ったのかい。優雅なものだね。」

 特徴のあるどこか皮肉めいた口調で言い、白銀の髪の青年は傍らの椅子に身を投げ出した。
 軽く溜息を吐いて滑やかなその銀髪をかきあげたその面立ちは、丁度二十歳になる頃のそれだろうか。だが幻陽と同様、彼もまた身体の時を止められているに相違ない。

「ああ…疲れた。燕殊の早駆けにはついて行けないね。」
「それは──御苦労様でした。」

 ぎこちなく言葉を返す幻陽に、李怜はくすり、と唇の端に笑みを浮かべた。

「…何が可笑しいのですか」
「いや…きみはまだ若いからね。僕が疲れたって言うのには別の原因があるってことさ。」

 くすくすと笑いながら、彼は椅子の背もたれから身を離す。

「そうだね…僕の言葉が分かるようになったら、一緒に遠乗りに出掛けようか。」
「あ…はい」

 意図が分からないまま、それでも幻陽は頷いた。それと見て李怜は含み笑いを止めて大きく息を吐き出す。

「さて、主上は今どの辺かな──…と」

 何気なく呟かれた李怜の言葉に瞠目する。守護者紫淵の動向を気にする事は──

「いけない、いけない。これ燕殊には黙っておいてくれよ。あの人、こう言う事には厳しくてさ。」

 そう言って悪戯っぽく片目をつぶる李怜に、驚きを通り越して呆れを感じる。自分より遥かに永い時を紫淵と過ごしながら尚、この禁忌を侵すとは…。

「それじゃ、僕はそろそろ部屋に戻るよ。一応主上が戻って来られるまで起きているつもりだけど、君はどうする? 誘われたように、夜桜でも観にいくのかな。」
「いえ…」

 いつもながらよく喋る人だと内心呆れつつ、幻陽は頭を振った。

「興味ありませんから…もう休むことにします。」
「そう? 綺麗だと思うけど。まあいいや、お休み。」

 ひょいと身軽に立ち上がり、李怜は居間の戸に手を掛けた。…が、ふと動きを止めて、思い出したように幻陽を振り返る。

「知ってるかい? 桜の根元には屍が埋もれるって。」
「え…」

 昼間、紫淵に言われたのと同じ言葉。まさか李怜からも聞かされるとは思わなかった。

「知らないかい?」
「あ…いえ。今日、紫淵様から伺ったばかりです。」
「それは奇遇だね。で、納得できなかったんだろう? きみの事だから。」
「……………」

 黙り込んだ幻陽に、李怜は声を上げて笑った。

「分からないなら、なおさら夜桜を見ておくといいよ。丁度今夜は十六夜月だし、桜の妖しさも一層際立つだろうからね。それじゃ。」

 言い残し、遠見の力をもつ青年は部屋を出て行った。
 閉じられた戸を見つめ、幻陽は何とはなしに溜息を吐く。
 一体、桜の何がそんなに良いのか、今一つ分からない。幻陽は詩歌を吟ずることには秀でるが、実際の観賞に関してはその限りではないのだ。それゆえ、彼の書く詩は美しくはあっても現実味に欠けると、常々紫淵に言われているのだが…。

「夜桜…か。」

 既に陽は沈みきっていた。代わって東の空には、真円に近い形の十六夜月が昇ってきている。あと二刻もすれば、外は月明かりで十分明るくなるだろう。
 それまでに紫淵が戻ってこなければ、李怜の言うように夜桜を観にいっても良いと思った。
 知らずそんな事を考えている自分に気付き、幻陽は自分らしくないと苦笑を浮かべる。それでも、桜の妖艶さに惹かれている事に悪い気はしなかった。





 一刻が経ち、二刻が経ち、夜更になっても紫淵は戻ってこなかった。あと半刻…と、出掛けるのを渋っているうち、月は南天に廻って来てしまっている。
 窓辺に佇んだまま、幻陽は夕刻から物思いに耽ったまま何もしてはいなかった。

「夜桜…か」

 何度目かになろうその呟き。意識下での言葉ゆえか、幻陽自身はこの言葉を幾度となく繰り返していることに気付いていないようだが。

「…不思議なものだな」

 外に出るのが躇われるのは何故だろう。紫淵のことも桜のことも気になっているのに、何故…

「…夜半過ぎには戻ると」
「夜半が何だって?」

 不意に響いた声に驚いて振り返る。短く梳いた黒髪、心なしか娯しげな笑みを浮かべた口元。

「燕殊様」
「夜半過ぎに何が戻るんだ?」

 気さくに話しかけ、燕殊は幻陽の向かいの椅子に腰を降ろした。
 氷鷹の燕殊…予見の力を持ち、紫淵を除いた幽邃峡の三人の中では、外見的にも実年齢的にも最年長者である三賢の一人。

「どうしたんだ?」
「あ…いえ。夜半過ぎに戻ると紫淵様が──」
「それで待ってるってわけか。律義だな。」
「…眠れないだけです。」

 素っ気なく返された言葉に、燕殊は苦笑を浮かべた。

「素直じゃないな。まだ甘えたい盛りだろう? 三賢の一人だからって我慢することはないぜ。」

 燕殊の言葉に、幻陽は些かむっとする。
 確かに、幻陽の外見は幼い。だがそれは三賢としての宿命ゆえで…。

「これでも私は十七です。莫迦にしないで下さい。」
「十七だって!? もうそんなになるのか。」

 あっけらかんと言う燕殊に、幻陽は呆れた溜息を洩らす。
 燕殊に悪気はないのだろう。常日頃から幻陽を本当の弟のように可愛がっている彼のことだから。

「いやでも…俺はてっきり紫淵様待ってると思ったがなぁ」

 その言葉に、幻陽は顔を背けた。

「そのような──」
「ま、照れるな照れるな。」
「何故に私が。」

 からかう燕殊に切り返すように応えておいて、つと立ち上がる。

「何だ、どこか行くのか?」
「…桜を、観に。」

 妙に静かな、だが凛と響く声。過視の力を持つ少年の瞳は、窓の外の闇を見つめている。

「結局行くのか。…ま、気を付けろ。」

 椅子の背に身をもたせかけ、軽く目を閉じながら燕殊は言葉を続けた。

「最近、お前の星運が良くないからな。何が起こるかわからん…おい、幻陽。」

 聞いているのかいないのか、背を向けて歩き出している幻陽に気付いて慌てて身を起こす。

「聞いているのか? 別に俺は無理に──」
「御忠告、忝く承っておきます。」

 余韻を残して、ばたりと扉が閉じる。
 遠ざかる幻陽の足音を聞きながら、燕殊は深々と息を吐き出した。

「紫淵様も複雑な…」

 呟いた途端、奥間へと続く戸がすいと引き開けられた。そこから顔を出したのは、白銀の髪と遠見の力を持つ青年。

「燕殊? きみも起きていたのかい。」
「何だ、お前か。」
「…ごあいさつだね。部屋にいなかったから、心配して探しにきたのにさ。」
「嘘をつけ。言ってることが矛盾してるじゃないか。」

 進みでて隣に腰掛ける李怜に、燕殊は苦笑を浮かべた。

「察するに眠れなくてここに来たんだろう。」
「何のことだい? ──…ねえ、燕殊?」

 くすくすと笑いながらも、李怜はすぐに表情を改めた。

「主上と影貂のことだけど。」
「ん…ああ。俺も大分気になってるんだが──その、桜の…何だ」
「桜華の禍」
「そう、それだ。」

 片肘をついた李怜の言葉に手を打ち、燕殊は立ち上がって部屋の隅の戸棚に歩み寄る。

「考えたくはないが、憑かれたのは幻陽か、紫淵様か…」
「多分、主上の方だろうね。」

 戸棚から盃と酒壜を取り出す燕殊を横目で見ながら、李怜は呟くように言葉を重ねた。

「桜の根元には屍がある。主上が言ってたってさ。僕が思うに、影貂…あの子は危ないね。」
「おい、忠告一つしなかったのか?」

 再び腰を降ろし、呆れたように燕殊が口を開いた。

「ったく、それだけ気付いておきながらお前は…」
「いいじゃないか。それも天命さ。」
「またそれか。だが李怜、今回はそうそう軽いものじゃないぞ。」

 深刻そうなその声とは裏腹に、燕殊は酒盃を手にしている。

「紫淵様よりも幻陽の方が心配だ。あいつはまだ若いし…嫌な予感がする。…畜生、予見の力を使っちゃいけないってのがもどかしいぜ。」

 溜息を吐く燕殊を見て、李怜は小さく笑い声を上げた。

「説得力がないね、燕殊。どうして君は深刻な話になると酒肴に手をのばすんだい?」
「やかましい。お前も飲むか?」
「いや結構。そろそろ休むことにするよ。」

 すっと立ち上がり、無造作に髪をかきあげる。月の光に白銀の髪が淡い鱗光を放った。

「…勝手にしろ。」

 盃に酒を注ぐ燕殊を見やり、彼は思い出したように口を開いた。

「言っておくけど…きみと違って僕は現実主義者だからね。このままの状況で僕の命が尽きようと、幻陽がどういう目に遭おうと…それもまた、天命さ。」

 その言葉に、燕殊は唖然として酒を注ぐ手を止める。

「おい、誰もお前が死ぬとは…」
「その可能性が十分にあるってことさ。主上があの状況じゃあね…。それじゃおやすみ、燕殊。──良い夜を。」

 優雅に踵を返し、李怜は居間を去った。
 手を止めたままで閉じられた戸を睨むように見つめ、燕殊は軽く舌打ちする。

「あの野郎…勝手に遠見を使いやがったな…」





 外は月のせいで十分に明るかった。満月には及ばぬものの、不可思議な十六夜月の輝きは、桜の美しさを際立たせるに余りある。
 心なしか冷たい地面を歩きながら、幻陽はぼんやりと紫淵と李怜の言葉を思い出していた。
 吹き抜ける風が、程よく冷えた夜の大気を震わせる。それにつれて桜の枝々も揺れ、一枚一枚花片を散らせていく。

(これほどまでに美しいのに…)

 踏みしめた草が、かさりと乾いた音をたてる。

(何故に紫淵様はこれが恐ろしいなどと…)

 歩みを進めるごとに、闇に慣れ始めた目は新たな景色を見いだして行く。

(何故に…)

 風が啼く。木々の幹が揺れ、ざぁ…っと音を建てて花吹雪が舞う。

「これ程までに美しいのに──」
「それゆえ、桜は恐ろしい…」

 聞き覚えのある声に驚いて足を止める。返り見た先、一際大きな桜の木の傍に…

「美しさに人は魅せられ、人はそれに捕われる…この紅は鮮やかすぎるゆえ…」

 紫珠色の髪と瞳は、不気味なほどに夜闇に映えていた。嫣然と微笑むその佇まいに、戦慄すら覚える。

「紫淵…様」
「来よ、幻陽。…我が言の意を解せぬなら、な。」

 誘うように、紫淵はその腕を伸ばした。さして近くにいるわけでもないのに、それに捕われそうな気がして、思わず幻陽は身を引く。

「如何した、幻陽? 何を怖れる…?」
「紫淵様、一体──」

 ここで何をしていたのか。その疑問は、言葉になる前に消え失せた。守護者と三賢との掟。破ることは出来ないと、その意識が彼を縛る。
 そんな幻陽の思惑を見透かしたように薄笑みを浮かべ、紫淵は一歩、足を踏み出した。

「桜の紅は血の色よ…妖しいゆえに美しい。」

 一歩…また一歩。そうして歩みを進めるごとに、風が啼いて薄紅が散る。

「なれど…」
「──…?」

 轟──と吹きつけた風が、紫珠色の長い髪を舞わせる。

「なれどまだ…足りぬ。」

 深く澄んだ紫の瞳が、幻陽の金色のそれを覗き込む。困惑を隠せず紫淵から目をそらした彼の視界に、月に照らされて花片を散らす桜の巨木が映った。
 夜闇のせいかその薄紅色に昏さが加わり、強い風に舞うその様はさながら紅色の吹雪───。

(何て…幻想的な)
「分かるかえ、幻陽? この風景は美しく…そして妖しい。だが足りぬ」

 耳元で囁く紫淵の声。不穏な響きを感じながら、幻陽はその場から動くことができなかった。

「ただ紅が──血が足りぬ…」

 桜は散り、月は翳る。影の落ちた地上は朱紅い。

「…紫淵様…?」
「──ただ血が足りぬだけ…」

 自分から身を離して袖口から短刀を取り出す紫淵に、幻陽は目を見開いた。行動は容易に予想がつく。

「幻陽…しかと、見ておくが良い…」
「お止め下さい、紫淵様──」
「邪魔だてするな」

 止めようと伸ばした手と上げた声。それはどちらも紫淵のそれに遮られた。押し退けられてよろめき、紫淵の冷たい瞳に射竦められて幻陽はその場に立ちすくむ。  動きを止めた幻陽を見て、紫淵は唇の端に笑みを浮かべた。
 左手にある鈍い輝きの短刀。無造作にそれを持ち上げ、刃を右腕の内側に滑り込ませる。

「血の紅こそ美しい──そうは思わぬか…?」

 そう言うと、紫淵は勢いよく短刀を滑らせた。
 斜めに一筋切り裂かれた腕。間を置かず紅い線が奔り、見る間に大きくなって腕から滴り落ちる。

「されば…桜花よ。我が血を喰らいて妖艶なる華を散らすが良い…!」

 高らかに笑う紫淵に、恐怖すら感じる。
 風は止まず、ますます強くなっている。花吹雪は尚も絶えない。

「さあ…幻陽。行くぞ。」

 呆然と佇んだままの幻陽を左手で引き寄せ、紫淵は歩き出した。

「今なら分かろう。桜の妖艶さ、恐ろしさ…」

 何と答えて良いか分からず、幻陽は僅かに頷く。
 …分からないわけではない。けれど、この時幻陽が感じた恐怖は、桜ではなく紫淵に──紫淵の血に対してのものだった。
 それを桜の恐ろしさと言うのなら、成程そうなのかもしれない。だが、どうしても釈然としないものを感じた。
 血塗れの右腕を垂らしたままで、紫淵はこの辺りで一番大きな桜の木に近付く。

「幻陽…どう思う」

 不意に問いを発した紫淵の声は、それまでとは打って変わって静かなものだった。

「この私を、どう感じる…?」

 瞳はまっすぐに桜を見上げ、枝の間から垣間見える月の面影を映し出している。
 この時、不思議と風は鎮まっていた。守護者としての紫淵の力が作用したものか、それとも単なる偶然か。

「…幻陽?」

 重ねて問う紫淵の声に、幻陽は黙したまま彼を眺めた。
 強い風に髪は乱れ、自ら傷付けた右腕からはただ鮮血のみが滴り落ちる。幻陽を見返した瞳は穏やかだったが、そこに現世は映っていないようであった。
 応えない幻陽の腕を放し、諦めたように背を向けて再び桜を見上げる紫淵のその姿は…

「──…って…います、守護者よ。」
「…何?」
「貴方は狂っている。」

 言葉だけ、奇妙に凛と響いた。
 背を向けたまま動かない紫淵に、幻陽は同じ言葉を繰り返した。

「…貴方は、狂っている。」

 ざわり…と、花が揺れる。

「この私が──」

 紫淵は振り返らない。ただ、その肩が微かに震えているのが分かった。
 …笑っているのだと、そう気付くまでに数瞬かかった。

「よくぞ言った、幻陽。正に私は狂っている…」

 その声は静かなままだったが、そこには瞭らかな自嘲の響きがあった。幻陽を返り見た紫淵の瞳の奥は、ただ狂気のみに彩られている。

「ならば…ならばそなたもそうあるが良い、幻陽。──三賢として!」

 左手に持ったままの短刀が閃く。鈍い斬撃。左目に緋色の痛みが走る。間を待たず、どろり…と、頬を生温かい液体が伝い落ちた。

「─────っっ!!」

 斬られた…思うより数瞬遅れ、顔の左半分を激痛が貫く。

「っ…あ…ぁ──っ」

 痛みに耐え切れず膝をつく。意識ははっきりとしていたが、唐突に起こった自分の身体の異変に、ともすれば心が狂いそうになった。

(何故…っ…)

 痛みに発狂しそうになる声を押し殺し、溢れる血を止めるかのように傷口を強く押さえる。
 そんな幻陽を見下ろし、紫淵は静かに口を開いた。

「血の涙…か。それもまた、美しい…」

 声と言葉の冷たさに、幻陽は屹っと紫淵を仰ぎ見る。
 月の光は明るいままだったが、視界の左半分は穴が開いたように暗い。それにも構わず、幻陽は左目の激痛を堪えて立ち上がった。
 止んでいた風が再び吹き始めた。葉ではなく、花片の擦れる音。昼間は心地よかったそれも、今は欝陶しく感じる。

「…狂っています、守護者よ。何故にこのような…」

 呟くように言い、幻陽は俯いた。
 暗く霞みかけた視界に、紫淵のそして、彼自身の血で染まった大地が映る。

「桜は、それのみで十分に美しいのに…」
「愚かな! この淡い紅で美しいだと!」

 はっと思う間もなく、紫淵の右腕が伸びて幻陽を捕らえた。 傷の痛みを感じないかのように幻陽を軽々と持ち上げ、彼は残った幻陽の金色の瞳を見つめる。

「この桜を美しいというのならば…その瞳、永遠に失くしてしまうがいい…」

 頬に押し当てられた冷たい刃。紫淵の浮かべた笑みに、背筋に悪寒が走る。
 けれど、何故か恐怖は感じなかった。覚悟ができていたのか感覚が麻痺したのか、それとも…。

「守護者よ、貴方も哀れな」
「黙れ───!!」

 す…っと、刃が眼球に滑り込む。閉じようとしても閉じられない瞳。焼け付くような鋭い痛み。そして、視野は赤から黒へと暗転する。
 瞳の中の異物感はすぐに無くなった。だが痛みは更に増し、頬を伝い落ちる血の感触は絶えず生温かい。
 無造作に地面に放り出され、立ち上がることも出来ずに幻陽はその場に座り込んだ。

「…淵…様──」

 見上げる先に風景は何一つない。ただ赤黒い暗闇が一面を占めているだけだ。

「その血でこの桜を染めるがいい…」

 喉にかけられた両手の感触。温かいのは、その血のせいだろうか。

「その生命で…その言葉を償うがいい…!」

 紫淵の指先に力がこもり、幻陽の喉を絞めつける。
 痛みと息苦しさに気が遠くなり、藻掻こうとする意識すら思考の隅に追いやった。
 ──と。

「あーあ…」

 不意に、その場に不似合いな澄み切った声が響いた。

「何やってるんだい、主上?」

 草を踏みしだいて近付いてくる、落ち着いた足音。それは何の躊躇も感じさせずに二人の側まで来て、ぴたりと止まる。

「ふぅン…? 随分とひどいんだね。そんなに桜の淡い紅が忌まわしいのかい。」

 相変わらずの、何かを嘲るような皮肉げな口調だった。

「感心しないね、主上。いくらなんでも、これはやりすぎだよ。」

 気圧されたように身を引く紫淵の手から幻陽を抱き上げ、李怜はくすりと笑い声を洩らす。

「確かに桜は美しく、そして恐ろしい…」

 歌うように呟かれた言葉に、紫淵は唖然と李怜を見返した。李怜の腕に抱かれたまま、幻陽もまた顔を上げて李怜を見る。
 ──その視界に何かが映ることは、もう二度と無いのだろうが…。

「ねぇ、主上? 自分が桜華の禍、つまりが桜の狂気に取り憑かれた事くらい、自覚していてもいいんじゃないのかい。」

 幻陽の頬に伝う血を拭いながら、李怜は変わらぬ調子で言葉を続けた。

「…李怜、そなた──何を」

 狼狽の色を隠せぬ紫淵の声を、幻陽は訝しげに聞いた。

「一体何を──」
「さあ? ただ僕は、三賢としての役目を果たしにきただけさ。」

 にこりと微笑んだ李怜の声は、平素と何ら変わるところがなかった。それが故に、かえって幻陽は彼を怖れたほどだ。

「さて、影貂。大分痛め付けられたみたいだけど、自分だけで立てるかい?」
「あ…」

 わけが分からぬまま、幻陽は頷いた。
 殺されずにすんだということは分かる。だが、李怜は何をしようというのだろう。三賢としての役目とは、一体…?
 そんな幻陽の戸惑いを見て取り、李怜は微笑んで幻陽の肩に手を置いて囁いた。

「大丈夫、これ以上きみを傷つけるような事はしないさ。」
「けれど…」
「いいから離れておいで、影貂の幻陽。」
「──はい」

 結局、幻陽は李怜の言葉に従った。
 両目の傷による痛みはもはや限界だったし、何より紫淵が李怜に対して何もしないことが気に掛かる。何にせよ、今の自分に出来ることは皆無だといっても過言ではないのだ。

「さて…主上。」

 幻陽が自分たちから離れたのを確認し、李怜は口を開いた。既にその表情から笑みは消えている。

「もう分かってると思うけど、何故僕が一人でここにきたんだと思う?」
「李怜──私は」
「桜華の禍…まさか主上が憑かれるとは思わなかったから、幻陽をあんな目に遭わせてしまったけど。…主上、あなたの行 為は、守護者として掟に──いや、理に反してるよ。」

 無感情に言葉を紡ぎながら紫淵に歩み寄り、李怜はその足元に落ちていた短刀を拾い上げた。

「言うことは…ないね。」

 転瞬──李怜の身体がすっと沈み込む。声を発する間もなく彼は手にした短刀を紫淵の胸に突き立てていた。

「狂った守護者は要らない。それが僕ら三賢で決めた掟さ。幻陽はまだ知らなかったみたいだけどね。でも、掟は掟。違うかい?」

 言いおわると同時に、手首を返して短刀を横に薙ぐ。

「李…怜……っ!」

 吹き抜けた風に、紫珠色の髪がふわりと揺れる。

「…おやすみ、紫淵様。」

 飛び散った返り血から巧みに身をかわし、李怜は呟いた。

「芸術としてなら、あなたのその執着は讃えられるべきだったけど…ね。」

 そう言うと、彼は倒れ伏した紫淵から幻陽に目を向けた。

「おいで、影貂。」

 声に導かれるまま歩み寄る幻陽を引き寄せ、その見えない目と視線を合わせるかのように身を屈める。

「分かったかい、桜のこと…それに、守護者と三賢のこと。君はまだ若いけど、これくらいなら理解できるだろう?」

 躇いがちに頷いた幻陽に、李怜は安堵の笑みを浮かべた。それから幻陽の目の傷に手をやり、痛々しげに眉を顰める。

「傷は癒えても視力は戻らないね…ごめん。」
「李怜…様?」

 俯いた李怜の髪が、ぱさりと幻陽の頬にかかる。

「どうか…なさったのですか?」

 怪訝そうに顔を上げた幻陽から慌てたようについと身を離し、李怜は軽く息を吐いた。

「後悔するのは僕の主義じゃない。さて…と、そろそろ、最後の役目を果たそうかな。」

 その手に先程の短刀は握られたままだった。一瞬の逡巡もなく、李怜は自分の決意を実行に移す。

「それじゃあ、ね。」

 独り言のように呟かれた言葉に、幻陽ははっと足を踏み出した。けれど、李怜の行動の方が僅かに早かった。紫淵の胸を突いたと同じ短刀で、彼は自分の身体を貫いたのだ。

「願わくば…桜花がこの地上を狂気で満たすことの無いように──」
「李怜様!」

 声を頼りに李怜に駆け寄る。
 弱々しい息。くす…と、その唇から微かに微笑んだような息が洩れる。

「これが…僕なりの償いの仕方さ…それに僕だって、まかり間違えば主上みたく…なってたかもしれないしね…」
「けれど──けれど! 何故こんな…」

 叫ぶ幻陽の髪を手をのばして撫でながら、李怜は微かな息で言葉を続けた。

「いいかい、影貂…すぐに次代の守護者が来る…きみがその人に仕えて…支えてあげないと──主上みたくなるよ……」
「り…れい…様?」

 震える唇で言葉を紡ぎ出す幻陽に、李怜はくすり、と静かに笑みを浮かべる。

「燕殊が言ってたから間違いない……それから…僕の後任に、よろしく─―」

 は、と息を吐く刹那、瞳から急速に光が失われていく。
 不思議なほど穏やかな面影を残して…

「李怜様…っ!!」

 声は途切れた。その唇から、もう息は洩れない。
 伸ばされた手を握り締めたまま、幻陽は呆然とその場に座り込んだまま…。
 月に照らされて、穏やかに風が吹き抜ける。その風に、最後に僅かだけ残っていた桜の花片が散った。
 鮮血で大地は染まり、そこに舞い落ちた花片もまた、真紅に彩られる。


 幻紫妖淡…それは 古 物 語───










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