幻影黙示録 幻想都市イスィラノール異聞


 時は後ユシュア暦1057年…
 科学と魔法が混在する時代。
 中央都市イスィラノールは、魔科融合の技術が最も発展した場所であった。
 物質的な取引はすべて、テュラと呼ばれる魔科融合体を使って行われていた。
 青白く放たれるその光は、どこか生命を連想させた。楕円形の形は、心臓を思い起こさせた。
 テュラ。
 その意味は、かけがえのない物。失われてはならない、大切な物。
 何故この様に呼ばれるようになったかなど、誰も知りはしない。興味の切れ端さえ持たなかった。
 今では、テュラはほぼ地上全てに通用する通貨となった。
 それは大切なエネルギー源でもあった。
 灯油や電気がなくなった世界。魔科融合体そのものが物質を動かす力であり、光を生み出す力であった。

 中央都市イスィラノール。
 栄えた時代の面影はなく、静寂と瓦礫が支配する街。
 ある者は呪いだと言い、ある者は魔科融合体の暴走だと言った。またある者は化学物質の爆発だとも、そして過去に起こった戦争の害薬による汚染だとも。
 真実は分かっていない。
 生きるものなど皆無の筈のその街で、今、確かに動く影があった。


*     *     *


 気が付くと、粘ついた液体が身体を包んでいた。
 目を開けると、嫌でも全身に絡みついているコードと、外気と自分を隔てている強化硝子が目に入る。
 更によく見ようと目を凝らした途端、眼球に流れ込んだ液体のせいか目の奥がずきりと痛み、彼は慌てて瞼を閉じた。
 瞳こそ痛んだものの、この身体を包む液体は何故か心地良かった。けれど…
 けれど…この違和感は何だ?
 自分の身体にあるはずなのに、妙にぎこちない。そう言えば、先程視界に入ったものの中には何かのコードがあったし、硝子越しに見えた風景は何処かの研究室のようだった。

 (培養…槽?)

 悪寒が背筋を駆け抜ける。
 人間がこの様な扱いをされるのは、二つの例を除いて他にはない。
 一つは、魔法、もしくは医学だけではどうにもならない傷などを負った時に、この世界の主原理である魔科学によって治療を施す場合。この場合、治療は病院で施されるのが常だった。
 そしてもう一つは、他生物の細胞や身体の一部を移植、もしくは融合する…

 (キメラ…手術…!? まさか―)

 思わず喝と見開いた目に緑がかった液体が流れ込む。痛みをこらえてもう一度辺りを見回し、そして自分の身体に視線を落とす。
 傷一つない手足、浅黒い肌、右肩から腹部に走るただ一つの大きな傷跡。…忘れぬようにと、魔科の治療すら受けなかったものだ。視界の隅に自分自身の黒髪を――ただし、かなり伸びてはいたが――認め、彼は安堵に瞳を閉じた。
 何もかも以前と変わってはいない。それにしては、身体から無数のコードが伸びているのが気に掛かったが、どこかで大きな怪我でもしたのかも知れない。
 そこまで考え、彼はふと自分の記憶が途切れていることに気が付いた。…生活していた頃の記憶はある。いや、それ以前の…胸の傷の痛みさえ。だが…
 何故、自分はここにいる? 傷の治療にしては不自然だ。伸びた髪の長さから考えても、最低10年はここに閉じこめられていたことになる。
 傷の治療ならば、死ぬほどの大怪我だったと言うことになるのだが…その割には、生命維持装置が使われた形跡はなかった。

 (出られないか…?)

 目を閉じたまま腕を伸ばし、自分をここに閉じこめている硝子に触れる。
 それは考えていたよりもはるかに脆く、少し力を入れて押すと、ぎしりと音を立てて軋みすらした。

 (やってみるか…)

 思い切ったように腕を伸ばしかけ、刹那躊躇う。
 以前…治療のため同じように培養槽に入れられていた生物が硝子を割って外へ逃れた際、コードが外れてもがき苦しんで死んでいったのを見たことがある。培養槽に入れられている生物は、いわばこの機械と一体化しているようなものなのだ。
 ――否。
 …これは治療のためではない。
 漠然とした確信はあったが、それでも不安は残る。

 (やってみなければ…わからないか。)

 意を決して、両腕を勢いよく前に突き出すと、軋む音と共に硝子に亀裂が走った。亀裂は連鎖的に広がり、やがて内側からの圧力に負けて勢いよく弾き出される。外気に触れた培養液が、じわじわと空に融け込んでいった。
 見るたび、奇妙なものだ、と思う。いかに魔科の力とはいえ、まったく異なる性質を持つもの同士が、触れた途端に同化するとは。
 惚っとそんな事を考えながら、身を包んでいた液体が乾くのを待つ。既に、先程まで身体にあったコードは全て剥がれ落ちていた。
 危惧したような痛みと、発作はなかった。
 ある程度予想したことではあったが、彼は安堵の溜息を吐いた。

 「………」

 出そうとした声は、長い間震えることがなかったせいで錆び付いた喉にかき消された。
 全身の関節が悲鳴を上げる。それを無理におして、彼は培養槽から抜け出した。四散した硝子の破片を踏まないように気を配りながら、近くの机に歩み寄る。

 「…っ…つ」

 倒れ込むように椅子に座り…そこで漸く、自分が衣服を身に纏っていないことに思い当たった。
 無意識に立ち上がって数歩足を進め…そしてふと、歩みを止める。

 (何処へ…行こうとしていたんだ。)

 そのことだった。
 考えてみれば、この研究室も見慣れた感じがする。知らないはずの機具の使い方も覚えているし、何よりも今行こうとしていた場所に衣服が仕舞われていると言うことすら知っていた。
 そう言えば、先程ふと脳裏に浮かんだ培養槽を破って抜け出した生物の光景も、彼自身の記憶にはない。

 (どういうことだ…?)

 片手で流れ落ちた髪をかき上げようとしてふと気付く。

 「……な…に?」

 爪が螢緑色に染まっている。いや、染まっているのではない。変色…? 薄暗い部屋の中で、両の手の爪が淡い螢緑の色を発している。

 「何…だ…?」

 そこだけ自分のものではないようで…漠然とした恐怖すら感じる。
 片手の爪を茫然と見つめたまま、彼はどさりと椅子に腰を下ろした。
 ゆっくりと…記憶の歯車が回り始める。けれど、それには欠陥があった。歯の欠け落ちた、どうしても上手くかみ合わない箇所。
 何時からここにいるのかさえ思い出せなかった。
 肺が締め付けられるように苦しい。脳の中を、小さな無私が蠢いているような気がする。
 冷えた地下の空気に肌が粟立ち、彼は取り敢えず衣服を纏おうと立ち上がった。
 薄暗い研究所。永い間動かされることの無かった空気。それら特有の匂いが今になって微かに鼻を突く。培養槽を破壊したせいか、壁際にあるランプが警告の為の赤と黄の光を交互に発していた。
 歩み寄り、引き開けた戸棚の中には見慣れない衣服が数着入っていた。いずれも違わぬ漆黒の合成繊維。研究衣でないことは一目で瞭かだった。まるで彼の為にあつらえられたかのように――
 不審に思いながらも、それを身につける。踵と爪先を強化した革長靴、螢緑に変色した爪を隠すかのような合成樹脂の手袋、それに一本の短刀。
 伸びた髪は切ることなく束ねられた。髪をまとめるのに丁度良い紐が、用意されていたかのようにそこにあったからだ。
 …何もかも不思議だった。自分のことは分からず、逆にこの研究室のことは永年ここで暮らしてきたかのように細部にわたるまで知っている。それでいて、自分自身の――おそらくここに来る少し前までのものだろう、記憶はしっかりとあるのだから、もはや不安を通り越して不気味に思えてくる。

 (まったく…どうかしている)

 溜息を吐きつつ、彼は再び椅子に腰を下ろした。
 無意識に目の前のコンピューターの電源に手が伸びる。電機の接触する微かな音がして、デスクに埋め込まれたディスプレイに光が点った。

 (どうやって此処から出るか…)

 黒い画面に浮かび上がる文字を指で追いながら、ぼんやり…とそんなことを考える。…と、気紛れに文字を追っていた指が、表示された選択肢の一つに触れる。
 刹那、溢れるように文字が羅列された。その中で特に目につく一行…

 《δ−project No,0 Codename:Virceus》

 「デルタ…プロジェクト…?」

 唖然と呟いた瞬間、記憶が閃いた。

 薄暗い研究室の中に浮かび上がる培養槽の影。プログラムを入力する手元から、視界は培養槽の中の人型生物へ移ってゆく。
 胸に走る刀傷の跡。あれは…自分なのか? 何故、自分で自分を見ている?
 記憶の中の視線が画面へ戻り、そこにある文字を読み上げる。

 Cell fusion…細胞融合。

 実行を示す古代語が響く。そして目に映る光景は鈍い閃光に包まれ…辺りの景色が赤黒く染まった。微かな呻き声、鮮やかな痛みの記憶。
 プログラムを入力した人物は殺されたのだと、何故かそう確信した。
 不意に意識が戻る。目の前にあるディスプレイには、あの時と同じ文字が映し出されていた。
 DINACELF――異質細胞融合。δ−project…
 実験体。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 「私…が?」

 弱々しい声が喉の奥から漏れる。今のように掠れてさえいなければ、天鷲絨のように艶やかな、そして滑らかな声であったろう。

 「莫…迦な…」

 認めたくはない。だがこの計画の実験台にされたのだと思うと、皮肉にも全て辻褄が合うのだ。何より、両の手指の変色した爪…
 実験体、と一言に言っても色々ある。自分の意志で協力を申し出る者、死後間もない生命体、もしくは治療不可能なほど傷付いた者、そして無理に連れてこられ、強引に実験にされる者。
 最後に述べた者である場合、必ずと言って良いほど実験前後の記憶が消されている。それゆえ、実験終了後も以前と変わらぬ生活を続けることが出来るのだ。ただし、その行動、生活などはすべて実験データとして研究者のファイルに記されることになるのだが。
 彼の場合失われた記憶は実験前のものだけで、その上誰のものか分からない記憶が混入されている。とはいえ、無理に実験体にされたことは十分に推測できた。
 研究者の目から見たであろうあの記憶。そしてシステムに書き込まれたデータを見ても、『δ−project』と称されるこの研究はとうに終わったものと見て間違いはないだろう。プログラムを組んでいた、あの研究者の死によって…
 どちらにしても、実験体にされたという概既の事実は消しようがない。
 唇を噛み締め、彼は食い入るようにディスプレイを見つめた。流れていく文字の列が、今は奇妙に虚無感を誘う。

 (コード:ヴィルセウス…実験体としての私の名か…)

 悔しさよりも孤独感が先に立った。培養槽に封じこめられてどのくらい経つのだろう。細胞の組み替えにより以前の自分と違ってしまっているだろうこの身体で故郷に帰ったとしても、果たして自分と分かる人間がいるかどうか…
 研究室から出ることも忘れ、彼は惚っとディスプレイに見入っていた。
 羅列される文字は、プログラムのそれからいつしか実験記録へと変わっていた。彼が覚えている最も新しい年…後ユシュア暦1192年不死鳥の月、下の銀の日を最後に記述は途絶え、後は延々と日付だけが更新されている。
 何も出来ずに高速で流れていく文字の列を眺めている内に、やがて日付は、後ユシュア暦1246年 一角獣の月、上の虚の日を示して止まった。
 十年どころではない、五十年以上もこの研究室に――否、培養槽に閉じこめられていたのだ。
 だが、不思議と驚きは感じなかった。それどころか、逆に納得すらしている。
 そんな自分に気付き、彼は軽く舌打ちした。

 (永い間使われなかったせいか、感情までも錆び付いたらしい…)

 コンピューターの主源を切り、軽く溜息を吐いて立ち上がる。ともかくにも、此処から外へ出なければ何もで出来ない。
 出口を知っていたことに今更驚きはしなかった。自分を実験対象にした研究者が、死の直前に自分の記憶を必要とも思われる分だけ彼の身体に移植したのだろう。相変わらず記憶は混乱したままだったが、その程度は予想できる。
 それでも、気紋を読み取って開くオートロックドアが、自分のそれに反応してロックを解除したことには些か意外な気もしたが。
 通路を抜け、梯子を登る。途中調理場と寝室があったので、食料さえ見つかればしばらくは此処で暮らせそうだと思った。

 地上への蓋を開けて外へ出ると、そこには殺伐とした光景が広がっていた。あるはずの街の姿はそこには無かった。
 廃墟と化していても見紛うはずのない街並み。中央都市イスィラノール。……彼の住み暮らしていた街。
 俄には信じられなかった。
 どこもかしこも、美しかった街の面影をとどめている。いつも通った道、行きつけの店、友人の住む家。だが…

 「エイシア…」

 茫然と呟いた唇が、強く噛み締められる。辛くて、悲しくて…やりきれなかった。
 期待が無かったと言えば嘘になる。五十年の後にも、自分の愛しい人はまだ生きていると…だが、もうその人は此処にいないのだ。…地上の、何処にも。
 (何故…)

 街の滅びは住人の滅び。魔科学の力に支配され、街から出る必要すら無くなった街で、それは理だった。
 気が付けば、彼は自宅のある一角へと歩き始めていた。
 一欠片の希望すら持てなかった。誰が好きこのんでこの居心地の良い街から出ようとするだろう。他の誰はともあれ…彼女だけは。
 人の死体は皆無だった。この街を滅ぼした何ものかに、一瞬のうちに焼き尽くされたのだろうか。そこには影しか残っていなかった。自分と同じように、研究所に連れ去られた者もいたかもしれない。
 俯いていた顔を上げると、目の前には自分の住み暮らしていた家があった。
 破壊の程度は…辛うじて半壊にとどまった、と言った所だろうか。けれど見慣れた造りは、以前の面影を忍ばせておきながらも、消してそれと同じではなかった。

 「エイシア…」

 再びその名を呟き、彼はゆっくりと家の扉をくぐった。魔科融合体のエネルギーが途絶えたせいか、サーチロックシステムも働かなかった。
 家の中は変わっていなかった。階段を上がってリビングへ行くと、否応にもシラと過ごした頃が思い起こされた。
 いたたまれないと、思った。涙こそ流れれなかったが、何より胸の奥が痛かった。

 「何故、だ…」

 言葉だけを唇に乗せ、彼は彷徨うように街路へと出た。今は、一刻も早くこの場所から離れたかったのだ。
 歩みを進めた先に、瞭らかに人為的に積み上げられた瓦礫の山があった。その中のひときわ大きなものには、こう記されていた。

 =我が母 エウリディア・ガドア ここにねむる=

 自分の他に、生き残りがいるとでも言うのだろうか。でなければ、こんな墓標など残るはずが…。
 わざわざ他の街から自分の母を廃墟に弔いに来る者など、万に一つもいるはずがない。それでなくとも、先程述べた通り街から出ることは皆無に等しいのだ。街と街との物品交換も、魔科情報体移転装置セシュでのみ行われている世界で…
 この墓標を作った者は旅に出たのだろうか…。住み暮らした街を無くして生き残ってしまった者には、その他には道はない。彼も、それは同じだった。
 だとすれば、武器になるものがこんな短刀一本では心許ない。何しろ、街から一歩外へ出ればそこは食料となる餌を求めて彷徨う改良生物(ソシェア)の跋扈する荒涼の土地なのだ。いつ襲いかかってくるか分からないソシェアに備えての知識など彼自身にはあるはずもない。あるとすれば、それは逃走本能という名の恐怖だけであろう。

 (武器は…ここには無いか)

 あったとしても、この街を襲った災厄にすべて破壊され尽くしているだろう。
 彼は軽く溜息を吐き、踵を返して歩き始めた。街中に武器が無くとも、あの地下研究所にならあるかも知れない。例えそれが旧式の銃でも、短刀一本よりは役に立つ。幸いなことに、押し込まれた記憶の中にはソシェアやウィンヌ(魔法生物)などの動物の身体構造の知識もあった。それを知っていれば、一撃で相手を仕留めることなど容易いことだろう。尤も、頭で考えるほど身体が上手く動いてくれればの話だが。
 街中の魔科エネルギーは切れていた。研究室の扉が開かないのではないかという懸念はあったが、それは杞憂に終わった。
 通路を抜け、寝室への扉をくぐる。培養槽のある研究室には、武器は置いてない気がした。
 寝室には大した家具もなかったが、武器を隠しておけそうな場所はいくらでもあった。例えば隠し戸棚や、寝台の下の引き出しなど。
 すぐに武器は見つかった。寝台の横の隠し棚。二、三挺の銃の中で、彼が扱えそうなものはランダルだけだった。

 「…上出来だ。」

 知らず呟き、もう一挺の銃も取り出す。念のため、と火薬も取り、彼は部屋を後にした。
 ここへ帰ってくるつもりは無かった。旅をする習慣は失われて久しいが、紡ぎ人、織り人と呼ばれる旅人のことは、まだ各地に細々とながらも言い伝えられている。だがそれでも、実際に旅をする彼が奇異の目で見られることはほぼ間違いあるまい。

 (行かないわけにはいくまい)

 いつの間にか日は暮れ、色あせた輝きを放つ満月が、朧げに辺りを照らし出していた。
 ひび割れた道の下に走るパイプが、所々地面を突き破って突出している。この街の魔科エネルギーはやはり尽きてしまっているのか、そこから吹き出しているはずの液化テュラは無かった。
 先程の墓標を過ぎ、街の隅まで歩く。自宅の前を通り過ぎるときは流石に胸が痛んだが、その歩みを止めることはしなかった。だが…街を出る直前に彼は足を止め、ふと背後を振り返る。
 街と街を繋ぐのはセシュとシェト(生命体移転装置)のみ。地図は一つの街とその周辺を僅かに記すだけで、全世界を記したものなどあるはずがない。地図無しでこの地上を歩くのは、自殺行為に等しかった。
 旅をするものは、旅に死ぬ。紡ぎ人の間に伝わる言葉をふと思い出し、彼は苦笑を浮かべた。

 「それもまた一興…か。」

 無意識に呟いた言葉に自嘲の響きがあった。

 「エイシア…」

 愛おしげにそう呟いた時、初めて、彼の瞳から涙が一滴零れ落ちる。
 それを拭おうともせずに彼は踵を返し…
 そして、ゆっくりと歩き始めた。

 荒涼の大地に吹き付ける風が、廃墟の街を駆け抜ける。
 やがて黄色い太陽が色褪せた黎明を告げ、中央都市を照らし出した時…
 そこに彼の姿はなく、朽ちかけの破邪聖杖(ホーリーバッシャー)だけが、静かに残されていた。




-It's all over..-






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