幻獣綺譚 外伝
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 黒豹のヴァルク……今は人狩りとして名高い、獣の血を継ぐ青年。
 裏組織の一員として早くから暗殺に関わり、仲間内では誰よりも早く暗殺者としての地位を確立した者。
 だが、彼への依頼条件は極めて限られたものだった。
 生きていては為にならぬ者であること。
 その死を悲しむ者がいないこと。
 二つの条件を満たして尚、その報酬は高くつく。
 しかし、彼への依頼は消して無くなることがなかった。確実なその腕前と、その名を知らしめる所以となった身体によって…

 あえて繰り返す。
 黒豹のヴァルク……人狩りとして名高い、獣の血を継ぐ者。
 そんな彼が唯一の友人にのみ明かした過去を、今語ろう…


 東雲(しののめ)という言葉をしっているだろうか。
 暁、即ち明け方のことで、場所によってはエオスと呼ばれることもある。
 このエオスという名が、黒豹のヴァルクの最初の呼び名であった。
 名付け親は精霊とも、獣たちとも言われているが…真実は彼のみしか知らないのだろう。
 彼の記憶の始まる箇所は、雨の降りしきる暗い森…今でこそ魔峡に通じると言われ、人の立ち入らぬシーダの森である。
 時は、今から20年前………


reminiscene 1

 一番記憶に残っているのは、あの時の雨の冷たさだろうな。
 ひどく冷たくて、それでいて何だか、不思議な懐かしさがあった。
 予感はしていたんだろう。俺はここにいるべきなんだと。
 唇から言葉は洩れなかった。俺は言葉を知らなかったから。ただ、獣の呻り声のように声を発することしか出来なかった。
 指先から伸びる鋭い爪、後部で揺れる長い尾。
 何もかも、違和感無く受け止められた。
 俺は…そうあるべくして生まれたのだから。

   **  **

 暗い森の中、佇む一つの小さな人影。頭部からは獣の耳が飛び出し、その背には長い尾、手には鋭い爪、その瞳は獣眼。
 体付きは人間そのものなのに、決して人間ではない生物。
 そんな存在として、彼は生を受けた。

――ココハ、ドコ?

 重い雨はますます冷たさを増し、森の暗さは少年の身にのしかかってくる。
 少年…確かにそれは少年だった。
 困惑した瞳で辺りを見回し、少年はくっと顎を引く。
 瞳が僅かに細められ、その面立ちが獲物を追う野獣のそれへと豹変する。刹那――
 音も立てず、少年の身体が宙に舞った。木の根元に向かって跳躍し、着地すると同時に両の爪で何かを押さえつける。
 それは子狐だった。雨に濡れた身体が,少年の手の下でもがいている。だが、それはやがて大人しくなった。
 無造作にそれを掴み、食い千切る。溢れ出る鮮血が彼の掌を汚し、そして喉を潤した。

――オレハ、ナニヲシテイル?

 暗示のように意識が呟く。お前は人か、獣か?
 口元から溢れ、滴る鮮血が、子狐を鷲掴みにした腕を伝って落ちる。それは雨によって薄められ、僅かずつ大地に染み込んで行く…。
 喉を鳴らして肉を飲み込み、彼は手の甲で血を拭って歩き出した。

――シンデナンカ、ヤラナイ…

 自分を捨てた両親か、この運命を押しつけた神か…
 心の内に蟠った思いは、誰に向けてのものだったろう。
 獣神のような冷徹な笑みすら浮かべ、少年は一人森を歩く。
 進める歩みは、自らの辿る道筋のよう、幼いその身には、既に野獣が潜んでいただろう。
 不意に、雷光が閃く。
 閃光の中に浮かびあがる影。青白い光に照らされたそれは、黒豹。

《エオス…我らが主よ》

 少年に敬意を示すかのように頭部を低く下げ、黒豹はその金色の瞳を煌めかせる。
 少年は足を止め、真直ぐに豹を見返した。

《我ら、獣の主よ……》

 そんな言葉のみ、微かに響いた。
 それでも少年の表情が変わることはない。感情という糸さえ切れてしまったのか、それとも、もともと存在しないものなのか。
 いずれにせよ、これが少年と森を結びつける唯一の出来事であった。
 これから十年近くの歳月を、彼はここで過ごすこととなる。
 だが、今の彼に分かることはただ一つ。

――オレハエオス…ケモノヲタバネルモノ。



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