Abyss #0


2.

『アドニス、アドニス、私のアドニス。此方へおいで、愛しいアドニス。』
『主上、我が君、仰せのままに。アドニスは貴方様の傍に。』



 そもそも彼の地を奈落と称するには理由がある。
 一は四方を岩嶺に隔たれた窪地であること。
 一は彼の地において息付ける生命の存在しないこと。
 一は…そう、最大の謎にして主たる理由は、神々が彼の地の存在を隠蔽しても尚、何者かに誘われるがごとく彼の地に惹かれ、消息を絶つ存在の絶えぬこと。

 しかし神々は忘れていた。
 何ゆえに彼の地は閉ざされ、封じられたそれであったかを。

 それは古い物語。
 オリンポスの山々に、神が暮らしていた昔。
 太陽神アポロンの、慈しむ寵愛の子一人。
 麗しきヒュアキントス、至上の楽さえ身に受けて。
 その美貌に惹かれては、数多の神々之が御元へ。

『ヒュアキントスよ、美貌の子よ。太陽神より我が身を。至高と見ゆる我が技を、汝がためこそ輝かそう。』
『ああ浅ましい神々よ。我が身捧ぐは主上のみ。陽の神、楽の神、我が至上はアポロンのみ。』

 嫉妬に狂う西風ゼピュロス、叶わぬ恋に焦がれてか、ヒュアキントスを手にかけた。
 残されたのは神の子アポロン、寵子を失くした哀れなアポロン。

『ああ! ああ! ヒュアキントスよ。何故その身を眠らせるるか。
 汝が美しさは花となり、我が嘆きは彩りとして、たとい久遠に語られようと。
 その麗しき艶姿、二度と我が目に映らぬものを。』

 事を知ったる美の女神、その名は気高きアフロディテ。
 寵愛したるは少年アドニス。美の誉れこそいや高き。

『アドニス、アドニス、私のアドニス。此方へおいで、愛しいアドニス。』

 呼び寄せ抱いて美神は囁く。
 お聞き私の愛し子よ。
 浅ましきは風の嫉妬よ、悋気に狂う西風よ。
 そなたの美しさあるがゆえ、私は畏れる、彼の者を。
 そなたがもしも、私を置き去りにしたら?

 震える指先絡ませつつ、アフロディテは懇願す。
 そなたは此処から去ってくれるな、我が為にぞ生きてくれ。
 涙を流す美の君に、少年アドニス微笑んで。

『我が主、我が君、美の神よ。
 貴方が永久を望むなら、アドニスは久遠を捧げます。
 貴方がアドニスを望むなら、アドニスはきっと生き続けましょう。
 譬えこの身が引き裂かれても。』

 それでも美神は嘆きを止まぬ。
 ならばとアドニス、一つの提案。
 忘れられた彼の地ならば、西風の息吹も届きますまい。
 如何でしょうか、我が主、我が君。
 そう悲壮な微笑み、ひた隠し。


 彼の地は安寧。
 彼の地は忘却。
 寵愛ゆえに愛ゆえに、置き去りにされた少年の。
 忘れられた最後の楽園。



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