Abyss #0


3.

『忘れないで 忘れないで お願いだから忘れないで
 貴方を愛したこの僕を どうか、どうか忘れないで…』



 一見、その地は楽園に見えた。
 実際楽園でもあったのだろう。
 けれど神々の世界とは理を異にするその場所は、神々にとっては奈落に等しかった。
 その世界がいかに美しく、精巧に天上を模して造られていたとしても…
 所詮それは模倣でしかなく、皮肉なまでの正確さは困惑を生みこそすれ、決して神々の讃美を受けることはなかった。

 彼の地は忘れられた場所。
 何の故あって創られたか知れぬまま、忘れられた…

 然しその身の愛ゆえに、望みて奈落に堕ちしもの。
 高き美神に見送られ、自らその身を貶めて。

 見送り遙か、美神の天宮。
 眺めもあえぬ奈落を見下げ、アフロディテは滂沱とし。

『許しておくれ、愛しいアドニス。
 汝(なれ)との永久の別れより 我が望むは停滞の…』

 ああ西風が、もし西風が、吹かなくなれば相見えようと、美神はそっと嘆息す。
 然して風の吹き止まぬ、そんな刹那は何時や来るらん?

 溢れる涙ひとしずく、墜ち行くたびに記憶は零れて。
 美神はいつしか傷みを忘れる。

 奈落に降りし少年アドニス、主の心を知らずてか。
 白き天を見上げては、蒼き大地にくちづけて。

『我が主、我が君、愛しきひとよ。お願いします、お忘れなきよう。
 アドニスを このアドニスを、どうか、どうかお見捨てなきよう!』

 切に、切にと祈り願うも、彼の地は奈落、願いは叶わぬ。
 それでも少年、天を仰ぎて…
 愛しき貴人の面影思ふ。

 木々は蒼く生い茂り、花咲き乱れ、香は漂う。
 けれど忘れられた彼はアドニス、唯一にして最後の命。
 叶うことなき願いを紡ぐ。


 彼の地は静寂。
 彼の地は停滞。
 寵愛ゆえに愛ゆえに、置き去りにされた少年の。
 忘れられた最後の楽園。



<< <戻> >>